鎌田学 永遠の僕等のヒーロー! 合掌 #car #bike
学はホンダの開発ライダーを10年、
ロードレーサーとして活躍したモーターサイクリスト。
そんな学の密葬も終わり、
生前活躍した大きな世界とは裏腹に
妙に小さな箱に収まった。
1970年7月生まれの学。
僕らとはちょうど10才違う。
レーサーとしては「がく」だが
僕らにはいつまでも「まなぶ」だ。
「僕ら」とは私には双子の弟がいる。
モーターサイクル好きの弟「仁」と
危ないことが嫌いな僕「孝」。
学は鎌田の本家の一人息子で長男。
両親にしてみると結婚して10年以上経って
やっと出来た、跡取りであり、一粒種。
ちなみに僕等と学の父とは従弟に当たる。
一人っ子で遊び相手になる親戚が少なく、
ちょうど僕等が最適な関係であった。
10才違う僕らのすることは
背伸びをした学にとっては
たまらなく刺激的だったに違いない。
兄弟のような付き合いだった。
小さい時からいっぱい遊んだ。
笑いの耐えない楽しい時間だった。
中学生にもなると札幌の西野から
伏古まで片道20キロ以上も小さな自転車で
一生懸命大粒の汗をかきながら遊びにやって来る。
僕らの仕事の都合も関係なくただただ会いたくて
一生懸命屈託のない愛らしい笑顔でやって来る。
まだ免許がなく公道すら乗ることの出来ない
僕らのバイクをいじくってはよく磨いてくれていた。
僕らがバイクで学は自転車。
そんな不思議なツーリング。
学はバイクの後を自転車でどこまでも
追いかけてくる。
しかもそのスピードも尋常じゃない。
あの笑顔でどこまでも・・・・
バイクレースもどきをした時でも
自転車で追ってくる。
只者ではないと感じた。
猛スピードで走る自転車でのコーナーワーク。
なんとドリフトで抜けてくるのだ。
自転車でドリフト・・・・
早速、学校には内緒で原付免許を取らせた。
スクーターレースのためだ。
学の父さんは免許を取ることで
レースを認めてくれたからだ。
スクーターレースでも非凡さは光っていた。
1年かけてクラス優勝することが
ステップアップの条件とした僕の弟。
男と男の約束。
誰よりもバイクの危険さを知っていたのも弟に他ならない。
弟、仁はバイクの事故で死に目にあった。
足をやられ2年の闘病と7度の手術で
人並みに歩けるようになった過去がある。
もちろん、学はその光景を知っている。
レース用のスクーターや原付レース用バイク、
工具から、レース参加費用まですべて弟が面倒を見ていた。
ステップアップの条件と約束。
それは事故に遭わない為の修行と
一人では結してレースは成り立たないこと、
サポートしてくれている人たちにいつも感謝すること、
おごり高ぶりは神様が見ていることを
体に染み付かせるものであった。
学はそれを忠実に北海道に居る間は
頑なに男の約束として守り続けた。
北海道での最後の活躍の年だっただろうか、
ルール的に、上のクラスへ自動昇格になってしまった。
男の約束を破ったのは後にも先にもそれだけだ。
それでも学は「約束を破った・・・御免なさい・・」と謝まった。
そんな学も活躍の場を内地に移し
華麗にそして命がけで走り続けた。
沈着冷静で転ばないロードレーサー・・・
それが10年にも及ぶホンダ開発ライダーとしての
円熟したキャリアになったのであろう。
あの学の美しく華麗なライディングフォーム。
憧れた若手レーサーも多いに違いない。
学は、命掛けのレースをするようになってから
欠かさず墓参りを続けた。
見えない世界の力と守護を信じて。
正月の墓参りは大変だ。
弟と雪の中から墓を掘り起こしお参りをするからだ。
力強い新春の日差しを浴びているお墓で手を合わすために。
僕は学ぶとはいつもばらばらで浦臼のお墓参りに行っていた。
昨年はどう言う訳か一緒に行った。
いや、行けた。
でも
今年の3月の彼岸は行けなかったな・・・
初めて今年の正月に学が「呑もう!」と僕を呼出した。
彼から呑もうと言われたのは実は初めてだった。
夜中まで楽しく呑んだ。
今、思い起こせば不思議な時間だった。
死についてや生き方についても語り合った僕等・・・
享年40歳。
ちょっとこの世の時間としては
短い人生だったかもしれない。
多くの人たちが学を支え、
生き様と人懐こい笑顔から
多くの勇気と感動を僕らはもらった。
学の凝縮された『魂の光』が
これからも僕らを照らしてくれることだろう。
今日は学の好きな晴れの日
浦臼の墓参りに行って来る。
ほんとうにありがとうな・・・
まなぶ
ゆっくりと
やすめ・・・
永遠の僕らのヒーロー
== MK 13 GAKU ==
合掌
学がいつもお参りに来ていた浦臼・・・これが一緒に撮った最後の一枚になった。
↓学のライディングによるホンダCM↓
鎌田学オフィシャルホームページ